僕が根付いているこの地球という星は、太陽に対してほんの少し首をかしげた状態でその周りを回っているのだそうだ。その程度のことなら、天文学やら地学やらに大して明るくない僕でも持っている知識である。
 そしてこの一見些細にも見える傾きは、地球の中でも北のはずれにある僕の家に、今まさにある現象をもたらしていた。
 白夜である。


 壁の時計を見れば、針はすでに午前3時を回っていた。なんとなく目が冴えてしまってだらだらと眺めていた書類を傍らに置いて、替わりに携帯電話を手に取る。リビングを出ると僕しかいない家の廊下に足音が反響した。
 深夜特有のはっきりしない頭を振って、玄関の扉を開ける。流石に肌寒い空気が寝巻きの襟元から入り込んできたが、構わずそのまま庭へと向かった。
 そこは夜であって夜ではない。太陽は森の向こうに隠れてしまっていたが確かに地平線の上には存在していて、空をシルクのような光沢を持つ青色に染めている。しかし昼に見られるような活気のある明るさでもなく、まるで周囲の空気全体がひっそりと息を潜めているかのような静謐さを湛えていた。

 僕は白夜が好きだ。この季節に度々外に出ては、独特の世界を楽しんでいる。

 携帯電話の履歴から目当ての番号を選び、通話ボタンを押した。今日は随分遅くまで僕の国で行われた会議に参加していたから、この時間でもまだ彼が起きているであろう事は見当をつけている。
 2つ半のコールの後、聞きなれた声が耳に届いた。
「なじょした」
「起きてましたか?」
「ん、今帰ったとご」
「よかった」
一応確認して、安心する。庭に2つ出してある椅子の片方に腰掛けると、ぎい、と音を立ててそれがわずかに傾いだ。
「何ばあった?」
こんな時間にかけてきたものだから、向こうもそれは驚いているのだろう。訝しげというよりは、純粋に心配しているらしい声色で訊ねてくる。
「いえ、そうじゃないんですけど……今、外見れます?」
「外」
「ええ」
「ちっと待っで」
どうやら携帯を握ったまま動いているようで、がさがさと体勢を立て直す音が聞こえてきた。今日も持っていた、いつも仕事の時に使っている黒い鞄をソファに投げる音。次に彼の家のリビングにある一番大きな窓のカーテンを開ける音。それは実際に目の前にしなくてもその光景が目に浮かぶほど、聞きなれた音であった。
「太陽、出てます?」
「出てる。方向は違えから見えねえけど」
「僕も今、空見てるんです」
「……それで庭にいんのが」
「分かります?」
「さっき、外の椅子に座る音さ聞ごえたから」
「すごい。聞き分けられるものなんですね」
僕も今スーさんがどこにいるかわかりますよ、と面白そうに言うと、おおと良く分からない感嘆の声が返ってきた。
 白夜のどこまでも透明な空気に包まれて、僕の神経は随分と研ぎ澄まされていた。きっとスーさんもそうなのだろうと思う。
 電話越しの会話なのに、まるで触れ合うような距離で話しているかのように互いの一挙一動を手に取るように感じていた。
「綺麗ですね、空」
「ん」
「少し寒いですけど」
「まあ夜だかんな」
「明るくても夜って言うんですかね」
「言うべ」
「即答ですか、僕結構前から悩んでたんですけど」
幸せで他愛無い会話をしながら、僕は椅子を立って庭の花を戯れにいじり、スーさんはパックの紅茶を淹れてちびちびと飲んでいた。途中、先日二人で植えたダリアはどうなっているかと問われ、良く根付いていますよと答えた。
 とても奇妙な気分だった。こんなに近くに存在を感じながら全く別の場所で別の事をしていて、それでもふたりで同じ空を眺めている。携帯を震わせるような低い声を心地よく耳に転がしながら、一方で痛いほど静寂の圧力を感じている。
「スーさん」
「ん」
「来週、会談の後、空いてます?」
「水曜?」
「ええ。泊まっていきませんか」
「んだない」
それからしばらく夕食のレストランはどうするだとか上司の愚痴だとかの話をして、スーさんが2杯目の紅茶を飲み終わる頃に通話は終わった。powerのボタンを押す音が、短くもはっきりと庭に響いた。
 携帯電話をポケットに入れて、もう一度空を見上げる。
 薄青い空に、雲の塊が2つ流れていた。日の光を不思議な仕組みで反射して、ピンクに近い紫色の影を落としている。
 大きな鳥が一羽、滑るようにその下を通り過ぎた。
 その下に、僕一人。
 僕一人の現実が帰ってきていた。
「……寒」
突然駆け上がってきた寒気を抑えるように腕を抱き込みながら、僕は玄関へと足を向けた。
 そうだ、寝る前に温かいスープを飲もう。








(夏の話ですが。)

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