あの頃。あの頃というのは、まだ僕が今よりも少し幼い見た目をしていた頃の話だ。
 あの頃の僕は、自分の周りの世界にゆっくりと圧力がかかっている事に気がついていた。なんだか憂鬱な日々が続き、いつも体がだるかった。
 そういった類の体調の変化は、国としての僕達が持つ性質なのだろうと思う。

 夜、屋敷の廊下を歩いていた。何故だったかは覚えていないが、自分の住んでいる屋敷である以上どこをどう歩いていていてもおかしくはない。とにかくその時、僕はデンさんの部屋の前を通った。
 そして、音を聞いた。
 どん、と、部屋の外まで響く重い音。
 その振動のせいだろうか、元々しっかり閉まっていなかったらしいドアがわずかに開いた。キィと軋む音と共に、薄暗い廊下に灯りが細く漏れて、丁度僕の足元を照らした。
 そこで何が行われているかを僕は薄々知っていた。見ないほうがいいということも知っていた。これは別に僕の性質ではなく、上司を通じて得た情報だ。
 それでも僕は、国としての性質と同時に人間としての感情も併せ持つ僕は、その隙間を覗かずにはいられなかったのだ。
 

「どうかしたっぺが、フィン」
デンさんが笑っていた。いつもどおりの屈託の無い笑顔だった。そしてその足元に、デンさんに片足で踏みつけられる形で、スーさんが転がっていた。あの頃のスーさんはもう今とほとんど同じくらいに大きな体をしていた。僕にとってはまるで壁のようで、恐ろしいと思うことさえあった。
 そんなスーさんが、僕のほうに頭を向けた状態で横たわっていた。床にはものすごい量の書類が散乱していて、意図的に破かれたように見える物も混ざっていた。
 デンさんの声に反応して、スーさんが顔をこちらに向ける。右頬に大きな赤い痣が出来ていた。
 彼は僕を見て少し驚いたような顔をした。小さく唇が動く。
――もどれ
 微かに聞こえた声が、確かにそう言った。
 でも僕は動けなかった。視線をそらすことも、できなかった。
 デンさんの足が突然動く。
 尖ったブーツのつま先がスーさんの肩に食い込んだ。
「が」
「うっせ」
スーさんが転がる。呻き声。でも、抵抗したり逃げたりする素振りはちらりとも見せなかった。
 そのままデンさんは数度彼を蹴り転がして、ふと僕のほうを見た。そしてスーさんに再び視線を戻し、つまらなそうに足を下ろす。
 折り重なった書類から1枚を抜き出して、スーさんの顔のすぐ横に置いた。無言のまま部屋の出口へ向かう。
 僕の横を通り過ぎるときに、ふいに立ち止まった。
「フィン、今日の晩飯なんだっぺ」
「今日は、ノルさんが、作っているので」
「そっが」
扉が閉まる。
 動けない僕と、動かないスーさんが残された。


 どれだけの時間が経ったか感覚がない。
 やがてスーさんは起き上がり、半ば無理やり立ち上がった。
 体を引きずるように僕の方へ歩いてきた彼の背丈は、やはり僕のものよりもずいぶん大きい。見上げていると、不意に頭を撫でられた。
「部屋さ、戻っとけ」
その声は体中の痣に似つかわしくない穏やかさだった。まるで小さな子供を扱うような言い方が嫌で、立ち去ろうとする腕をつかんで引き止める。その時彼の体がびくりと震えたのは、痛みからだけではないように思えた。
 自分から触れるのは大丈夫なのに、触れられるのは怖いのだ。この人は。
「何で抵抗しないんですか」
思った事を、そのまま聞いてみた。
 僕の問いを聞いたスーさんは僕と視線をあわせ、一度目を閉じた。答えに迷っているのではなく、答えようか迷っているようだった。
 やがてゆっくりと目が開けられ
「俺さ殴って、それだけで気が済むならその方がええ」
「そんな」
そんなのは酷すぎる。僕達が人の形をとっているがためにこんな仕打ちを受けなければいけないのなら、それはいくらなんでもいたたまれない。この存在が否定されてしまう。
 そう言おうと口を開いた時。
 ぽたり、と僕の靴の上に何かの滴が落ちる感触があった。
 赤い滴だった。
「あ」
ぽたり、ぽたりと。
 見ると、スーさんの腕から、足から、頬から、唇から、まるで緩やかに滲むように出血していた。それは明らかに殴られた跡でも切られた跡でもなく、そもそもさっきまでそんな傷は無かった。殆どが内出血だったのだ。
 左手の手相に沿って滲んできた血をじっと眺めながら、彼は呆然としていた。
「スーさん、これ」
「これは」
ゆっくりと首が振られる。
「民ん、血だ」
まるで止血をしようとするかのように、左手を右手で押さえるように掌を合わせながら膝をついたスーさんは、そこで初めて震えていた。血に混じって落ちる涙の滴だけが、透明に澄んでいた。


 その時、僕は、それをただ見下ろす事しかできなかったのだ。








(ということで4444番キリリク『デンさんに折檻されてるスーさんをフィン目線で』でした!)

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